もろともにあはれと思へ山桜 花より他に知る人もなし
昔は新聞なんて読まなかったのに、年齢を重ねると新聞が面白く感じます。
どうも、やぎやまです。
今朝の新聞に「全日本学生・ジュニア短歌大会」の記事が載っていました。
賞を取ったいくつかの短歌が紹介されていましたが、中でも目を引いたのは「佐藤千代子賞」を取った男子学生のもの。
エレベーター 7階迄の沈黙に 捨てた言葉はいくつもあるんだ
非常にグッときました。
どんな状況だったのだろうか。
捨てた言葉を伝えたかった相手は誰なのだろうか。
どんな言葉を捨てたのだろうか。
誰しも言いたい言葉を飲み込んだ経験がある。
大人になるにつれてそういう場面は増えてくる筈。
思ったことを思ったまま口に出すことをどれくらいしていないだろう。
「捨てた」言葉も数え切れないほどあるでしょう。
そうして消えていった言葉たちはどこへ行くのだろう。
そんなことを思った次第でございます。
短歌、俳句、都都逸なんかは結構面白いですよね。
伊藤園お~いお茶のラベルに載ってる「俳句大賞」はただの川柳では?と いつも思う。
だって季語も切れ字もないのに・・最近の俳句はそういうの無くていいのか?
一昨日だったか本屋に手帳リフィルを買いに行った時、レジ前に百人一首の本が売っていてつい買ってしまいました。
百人一首は恋の歌が多いそうです。やっぱり今昔問わず恋の歌は創作意欲が湧くものなんでしょうか。
以下やぎやまの好きな歌でございます。
①三番歌
あしびきの山鳥の尾のしだり尾の
ながながし夜をひとりかも寝む
ー柿本人麻呂
【山鳥のあの垂れ下がった尾のように長い夜を、私は一人寂しく眠るのだろうか】
❝長い夜❞を山鳥の尾にたとえるところに並々ならぬセンスを感じます。
②二十三番歌
月見れば ちぢにものこそ悲しけれ
わが身ひとつの秋にはあらねど
ー大江千里
【月を見ると、様々なことが悲しく感じられる。私一人だけに来た秋ではないのだけれど。】
作者の名前、おおえのちさと と読む事を初めて知りました。
③二十八番歌
山里は冬ぞ寂しさまさりける
人目も草もかれぬと思へば
ー源宗于朝臣
【山里は人も来なくなり草も枯れてしまうことを思うと、冬の寂しさが勝って感じられる。】
源宗于朝臣という方は平安時代前期~中期の貴族だそうです。
位の高い方でも「冬の景色は寂しいなぁ」という普通の人と変わらない感覚で物事を見ているところが好きです。
④三十四番歌
誰をかも知る人にせむ高砂の
松も昔の友ならなくに
ー藤原興風
【年老いた私は一体誰を友にすればよいのだろうか。あの高砂の松も、昔からの友ではないのだから。】
年老いて昔からの友の先立ち、一人残されてしまった寂しさを詠んだ歌だそうです。
老人が高砂の老松を眺めながら詠んでいる情景が浮かんで泣けてきます。
⑤三十六番歌
夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを
雲のいづこに月宿るらむ
ー清原深養父
【夏の夜は短く、まだ宵と思っているうちに明けてしまうが、沈む暇もない月はあの雲のどこかに宿るのだろうか。】
シンプルに美しくて好きです。
⑥四十七番歌
八重葎しげれる宿の寂しきに
人こそ見えね秋は来にけり
ー恵慶法師
【幾重にも雑草の生い茂ったこの寂しい宿に、人は誰も訪ねて来ないが秋はやってきたのだ。】
人は来ないが秋は来る という表現が物悲しい秋のイメージと相俟って良いですねぇ。
⑦六十六番歌
もろともにあはれと思へ山桜
花よりほかに知る人もなし
ー大僧正行尊
【山桜よ、私が思うようにお前も私のことをしみじみと懐かしく思っておくれ。こんな山奥では、桜の花の他に知り合いもおらず、ただ独りなのだから。】
修行僧が山中で思いがけず山桜に出会った時の歌だそうです。
修行の孤独さや山桜の美しさが目に浮かぶようです。
五・七・五・七・七という決められた枠の中でこんな風に情景や気持ちをうまく表現出来るというのは素晴らしい文化だと思います。
しっかり勉強したら古典短歌を詠めるようになるだろうか・・
百人一首を読み終わったら別の古典短歌の本も買ってみようと思います。
ではまたお会いしましょう、やぎやまでした。